【創刊100周年記念連載:LOOKBACK北大新聞】No.1 萌芽―機関紙としての役割と、寄稿に見る若者の息吹―
「北海道大學新聞」と書かれた縮刷版の重い表紙を開くと、大学新聞黎明期の、みずみずしい文章が流れ出してきた。縮刷版の持ち主である卒業生が淹れてくれたコーヒーの香りが漂う中、旧字体の混じる、ところどころ潰れた小さな文字を必死に追う。
1926年5月14日、「北海道帝國大學新聞」(後の北海道大学新聞)創刊。当時は、教職員と学生の親睦団体であり、課外活動を行う部活動が所属していた「文武會」の機関紙として発行された。
本連載では、創刊号から始まり現代へ、「北大新聞」が今に至るまでの変遷を追う。創刊100周年に立ち会った現役記者たちの目を通して、ともに歴史を振り返ってみたい。
第1号紙面は4面からなる。少ない面数ではあるが、記者は読了に大変難儀した。現在の北海道大学新聞と比較すると、文字が非常に小さい。また旧字体が使用されており、推測をしながら読まなければならなかった。
前述の通り、創刊の時点において北海道帝國大學新聞は文武會の機関紙であった。そのため、大学の構成員全体の連絡網としての役割が主に期待されていたようだ。第1号にも、以下のように記述がある。


「北海道帝國大學新聞」が発刊された1926年は、北海道帝國大學の「創基50周年」の年でもあり、創刊日の5月14日は、記念式典の第1日目であった。
クラーク胸像の設置、4日間に渡る祝典。3面には、記念式典の目玉として、「高松宮殿下の御台臨を仰ぎ得たる」「學術講演會」「學内展覽」などが書かれている。筆者がこの記事を執筆している2026年度の創基150周年のお祝いムードと同様に、いや、それより遥かに、学内全体が喜びと誇りに包まれていたと推察される。
ここで、第1号紙面の構成について大まかに説明したい。1面は創刊に寄せた祝辞や広告、2面は農学部教授であった中島九郎氏による「本學五十年側面史」、3面は創基50周年記念式の日程紹介、4面は文武會の部報や、佐藤昌介総長(当時)の謹話からなる。

ここからは、当時の学生が執筆した文章に着目する。
3面には、北大札幌キャンパスのシンボルのひとつであるクラーク胸像の除幕式についての記事が掲載されている。

北海道帝國大學の創基50周年と、ウィリアム・スミス・クラーク氏の生誕100年に際して、当時の卒業生、教職員、学生、関係者らから寄附金を募り建立に至った同胸像。記事本文からは執筆者の興奮が伝わるほどだ。
以下は、記念式典の行事のひとつ、「運動會」について書かれた文章だ。

意気揚々と、あるいは必死ささえ漂うような決意を「運動會」について述べている。農学部が「八百米リレー」(各科に因んだバトンを持って走り速さを競う)、医学部が「急救競走」(医師、看護師、患者などに扮する衣装を用いる)など、学部にちなんだ種目が行われるという。盛り上がりはひとしおだったであろう。
4面では、文武會の部報が目を引く。

庭球部の部報には、大いに自分たちの競技に対する誇りが感じられる。文章の中で胸を張っているようだ。
以下は野球部の部報だ。

今と変わらぬような、春が訪れて体を動かせる喜びが溢れている。文体からは野球部らしい豪快さが伝わる。
第1号には、記事の中に学生記者の見解を述べた部分はあまり見られない。そしてほとんどが、いわゆる「寄稿」というよりは、教職員や学生が「掲示板」のような使い方でそのまま文章を載せているように見受けられた。
現在でこそ大学当局の見解や方針・方策と異なる意見を述べることもある現在の北大新聞。しかしこの第1号紙面には、当局へ異を唱える隙間もなく、創刊を祝する総長や学部長、また学生らの言葉で埋められている。
それは、大学内部の機関紙であったと同時に、大学全体の連絡網としての役割を果たすため、事務的な連絡を重視する必要性があったからだろう。当然、現代のようにインターネットを介して教務や学部からの連絡が通達されるわけではない。学内での統一された情報伝達手段としては、私たちが思う以上に大学新聞は重要な役割を期待され、また果たしていたのかもしれない。
しかし、そんな事務的な役割の一方で、文武會委員長の「發刊の趣旨」には以下のようにも述べられている。

大学の事務連絡と同時に、当時の学生の勉学と活動の様子を反映したこの学生新聞。創刊号には、若者の原石の輝きが息づき始めていた。
(執筆:品村)
