旭山動物園「奇跡の復活」立役者 小菅正夫さん(獣医学部卒業生)【北大人に聞く 第6回】〈前編〉

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小菅正夫さん

今や全国有数の入園者数を誇る旭山動物園(旭川市)にも苦難の歴史があった。入園者数減少による閉園の危機の中、画期的な展示方法の開発などで旭山動物園ブームに火をつけた仕掛人が本学獣医学部卒業生の小菅正夫さん(同園前園長)だ。北大人に聞く第6回ではそんな小菅さんに生い立ちから学生生活、動物園復活までの道のりを聞いた。

柔道との出合い

小菅さんは札幌生まれ。子どものころは弱虫で気が小さかった。泣いて家に帰ることもあり、父親に「(けんかに)勝って帰ってこい」と励まされるような子どもだった。

中学1年生の時、今後の人生を左右することになる柔道に出合った。柔道部に途中で入部したが、ちょうど大会が近く、3日間しか稽古をしていないにも関わらず試合に出場することに。案の定3秒で投げられ敗北。その時悔しさを感じた小菅さんは柔道を一生懸命続けていこうと決意した。

中学卒業後は札幌南高校に進学。柔道部で活動する傍ら、レスリングやラグビー、応援団の各部にも所属し、多忙な生活を送っていた。

柔道では高校2年生の時、札幌圏の新人戦で準優勝し、「もっと強くなれるのでは?」と思った。そうして行きついたのが本学柔道部だ。高校2年生の後半から週に2、3日ほど本学での稽古に参加させてもらい、強い大学生相手に稽古に取り組んだ。

稽古が終わるとへとへとでつらかったものの、一種の気持ちよさを感じていた。こうしたなかで、本学柔道部に入部し、旧帝国大学間で争う七帝戦(七大戦)で優勝したいという気持ちが芽生えた。

2つの挫折

柔道に注力していた小菅さんは2年間の浪人生活を経て本学に入学。柔道部の先輩からは「よくこんなに(入試に)落ちたな」と声をかけられた。

当時は現在の総合入試制度と同様、入学時に学部を決めず2年生で学部選択があった。

小菅さんは幼いころからから生き物が好きで、まずは理学部や農学部を見学した。しかし、その2学部には興味をひかれず、最後に見学した獣医学部で馬の手術を見て感動。獣医学の道へ進むことにした。

部活動では、柔道部への入部を果たし、3年生の七帝戦後には主将に指名された。当時の同部は七帝戦で最下位。他大学の選手を分析し、歯が立たないとみた小菅さんは、「引き分け戦術」を考案した。

七帝戦では15人勝ち抜きの団体戦が行われる。小菅さんが考えたのは全員が粘って引き分けに持ち込み、代表戦(延長戦)でも引き分け続け、相手が最後に気疲れした時に勝負をかけるという戦術だ。

そうして主将として迎えた4年生の時の七帝戦では、1、2回戦と勝ち進むことができた。しかし、引き分け続きで部員は疲労困憊。決勝では京都大と戦ったが、最後の15人目が抑え込まれ、優勝を逃した。入学前から優勝を目指しており、この大会に膝のケガを抱えてまで出場していた小菅さんにとって「自分が自分でなくなる瞬間」だった。

獣医学部でも挫折が。3年生のはじめごろ、繁殖の実習で、牛の肛門に腕を入れる直腸検査ができなかった。柔道で鍛えた腕に筋肉が付きすぎていたためだ。通常肩まで入れるところ、肘までしか入らず、それ以上入れようとすると、牛が鳴いて暴れた。同級生でも直腸検査ができなかったのは小菅さんだけだったという。

馬だと腕を入れることができたが、田舎ののどかな牧場で牛の相手をする獣医師を思い描いていた小菅さんの人生設計はここで崩れた。

4年生の夏の七帝戦が終わった後、しばらく放浪した。8月末に北海道に戻ったが、柔道に力を入れていたあまり、出席数が足りず、留年の危機。それでも、先生に放課後、特別に実習させてもらうことで何とか卒業(当時の獣医学部は4年制)にこぎつけた。

就職は決まっていなかった。研究生として大学に残ることも考えていたが卒業直前の3月、獣医学部棟内の求人掲示板で偶然旭山動物園の張り紙を見つけ、応募を決めた。

卒業式と同じ日に試験を受け合格。就職担当の先生には「どんなにつらくても3年は戻ってくるな」と背中を押された。

北大生時代の小菅さん(小菅さん提供)

獣医学部に恩義

1973年に旭山動物園に入ってからは、地元の動物を中心に、まだ繁殖に成功していない動物の繁殖に精力的に取り組んだ。しかし、鳥類の性別判定方法がわからないなど数々の困難も経験。そんな時、いつも助け舟を出してくれたのが母校である本学だった。

スカンクの臭腺を除去する手術を実演して教えたり、動物園に近い旭川医科大の先生を紹介したりするなど、本学獣医学部の教員らはOBである小菅さんを支援。小菅さんの努力や周囲の助けが奏功し、国内で初めて繁殖に成功すると贈られる「繁殖賞」を、旭山動物園は小菅さんが退職するまでに20回受賞した。

小菅さんは「卒業生を助けてくれるこんな大学は、ほかにないのではないか。北大獣医学部には恩義を感じている」と話す。

就職してからは動物の繁殖に注力した(小菅さん提供)

動物園は経営難

小菅さんらが数々の繁殖に成功する一方で、動物園は入園者数減少の危機を迎えていた。テーマパークが台頭し、「家族連れで行ける唯一の娯楽」(小菅さん)だった動物園からは客足が遠のいていた。旭山動物園の入園者数は79年度の55万人をピークに減少。83年度に当時のトレンドだったジェットコースターを導入しテコ入れを図るも、根本的な解決には至らず87年度には50万人を切った。

そんな最中、小菅さんは86年、飼育係長に就任した。辞令交付式で旭川市の担当者に言われたのは「これで終わりだね」という言葉。寝耳に水だった。今まで経営に携わっておらず、まさか動物園がなくなるとは考えもしていなかった。これまでの繁殖の実績を認めてくれなかった市に怒りがこみ上げた。

そこから復活劇は始まる。

後編はこちら→【北大人に聞く 第6回】 旭山動物園「奇跡の復活」立役者 小菅正夫さん(獣医学部卒業生)〈後編〉

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