【創刊100周年記念連載:LOOKBACK北大新聞】No.2 発展 ー学生の躍動と、現実社会の描写ー
「北大新聞」が今に至るまでの変遷を追うこの企画、「LOOKBACK北大新聞」。第2回は第99号の紙面を取り上げる。昭和7(1932)年10月4日に発行された本号は4面からなる。1面では就職状況、2面では水害、3面では部活動、4面では文芸批評について、主に挙げられている。
昭和7年といえば、まだ昭和恐慌の影響が抜けず、不況に喘いでいる時期である。さらに北海道に関しては、前年から続く冷害に加え、度重なる洪水によって大変な凶作が発生していた。そこで今回は、不況や災害が大学当局、学生にもたらした影響に焦点を当てたい。

1面には「その後の就職状況 依然停滞のかたち」と題された記事が載る。6月の紙面でも就職状況について取り上げており、その続報という形だ。学部ごとの各業界への就職者人数が表にまとめられている。それによると就職率は65%にすぎず、不況の影響が大いにうかがえる。本文でも「惨めな状態」と評価されていた。しかし、土木専門部(後に新制室蘭工業大学へ包括される)の就職率は100%を記録している。これは当時の土木事業の勃興が要因だと考察されている。農学部から満洲国への就職者が出たことにも触れ、多様な就職先があることが評価された。
最近の北大新聞では、このような調査を行っていないが、当時の学生にとって就職難が大きな関心事だったことが推察される。

2面では広告欄を除くほぼすべての部分を使用して水害凶作について書かれている。3つの記事が掲載されており、中島九郎教授による「水害凶作観」、井上善十郎教授による「水害地の衛生」、野呂栄太郎氏による「天災と社會制度」からなる。
中島教授の記事は、農学部の水害視察団に加わり、空知郡南幌向及び晩翠(現在の南幌町)方面へ赴いた際のことをまとめたものである。水害の惨状を詳述し、天災の回避不可能性を述べる一方、「併し水害は天災とは申しながら多少予防の手段にかくる所あったがために今回のごとくその惨禍を大ならしめたことは否み難し」と、経費の関係で難しかったとはいえ、治水工事がしっかりとなされていれば被害を抑えられたことを指摘している。
井上教授の記事は長沼、岩見沢方面へ赴いたときの記事であり、泥炭地ならではの水害による窮状が詳細に記述されている。こちらは主に衛生面の問題が取り上げられていた。
野呂氏は、共産主義思想のもとに、当時の農村の窮状を解説している。

3面では農学部生が水害罹災地に収穫物を送った話や、馬術部の学生が寄付を集め、水害地の馬のために人参を送ったという話も書かれていた。
また、1つ前の第98号の紙面では新聞部が水害罹災者のために義援金を募る企てをしたことが書かれていた。しかし、これは大学側から、「大学として義捐金を募らうと思ふから、新聞部單獨での募集はやめたらどうか」との交渉があり、新聞部は手を引いた。だが、その後なかなか大学から具体的な案が出ることはなく、即刻動き出すよう、主張していた。当時の学生の当事者意識の強さが読み取れる。
このように、農村の窮状に対して当時の学生たちも危機意識を持ち、支援に動いていたことがうかがえる。
就職難に冷害と暗い話題が多い中でも、3面の部活動についてまとめた箇所では、学生たちが盛んに活動をしていたことが描かれている。また、次号が第100号という節目であることから、豪華な紙面が発行されることも予告されていた。苦しい時代背景でも、学生たちは活発に動いていたことが伝わってくる。
今回取り上げた第99号の紙面からは、当時の北大新聞の守備範囲の広さが伝わる。寄稿という形ではあるが、学生新聞が災害について大きく紙面を割いて取り上げたことにより、災害の惨状が学生たちに大いに伝わったことであろう。さらに、学生らが支援に動いたことを伝える記事によって、北大生の人情ある一面も広まる。学内の出来事だけではなく、世の中の出来事にも注目する。当時の北大新聞が広い視野を持って活動していたことが伝わる紙面であった。
(執筆:桝田)
