夜の北大12か月―7月編:石は語る
創基150周年を迎える北大は、四季折々の顔を見せるキャンパスの美しさが売りの一つである。しかし、多くの人々が目にするのは、人があふれる昼の顔にすぎない。本コラムは、北大の夜の顔を覗き見て、その美しさを見出すことを旨とする。例年にない蝦夷梅雨が明け、夏の彩を携えた札幌キャンパスは、どのような顔を見せるのだろうか。
7月26日午後10時——。
期末試験の勉強を終えた記者が学部の建物を出ると、メインストリートの人けはまばらになっていた。テスト期間のせいか、走り込みをする学生の数は心なしか少ない一方、建物には煌々と光が灯っている。
涼しい夏を迎えた北海道。日中の喧騒を忘れて札幌キャンパスを散策してみるのはどうだろうか。散策のテーマは「石」、物言わぬそれは多くを語ってくれる。

まずは北大正門から入ってすぐ右手に見えてくるのが「大志を抱いて」という石碑である。北大の前身・札幌農学校で教鞭をとったクラーク博士の「少年よ大志を抱け」に呼応するかのように刻まれた言葉は、北大の発展を願っているという。
道南・アポイ岳から運んだかんらん石でできた石碑の裏側には「北海道大学予科記念碑」と記され、1950年までの半世紀近く北海道の教育を支えてきた「予科」の名を残している。
折角なのでクラーク博士の像にも会いに行こう。サクシュコトニ川が流れる中央ローンの傍を通って行くと左手に現れるのが博士の胸像である。羊ケ丘展望台にある全身像と勘違いした観光客が訪れることも多々あるが、夜10時、さすがに人影はない。

北大の始まりを記すのが「クラーク博士像」だが、実はその設置は「創基50周年」の出来事。創刊したばかりの北海道帝國大學新聞にも記事が載っている。(関連記事→【創刊100周年記念連載:LOOKBACK北大新聞】No.1 萌芽―機関紙としての役割と、寄稿に見る若者の息吹―)
2026年7月31日で、生誕200周年を迎えるクラーク博士。彼が北大に滞在した僅かな時間は、今なお大きな跡を残している。
そしてクラーク博士の目線の先にある1つの石碑は、違った歴史のターニングポイントを記している。

「閑院宮載仁親王殿下篆額(かんいんのみやことひとしんのうでんかてんがく)」と冒頭に記された石碑。
その大きさの割に文字は小さく、目線より少し上に文字があるせいか人が目に留めることはほとんどない。
忘れられつつある過去を記した石碑は他にもある。
メインストリートを少し南下してクラーク会館前に来ると、道路西側に「七大戦茲に始まる」という石板が見えてくる。

こちらは記されている通り、第50回七大戦(国立七大学総合体育大会(現全国七大学総合体育大会))の開催を祝したもので、「北の地北海道において一九六二年記念すべき第一回大会が開催され」たと当時を振り返っている。
昨年度は北大が主管校となり、史上初の連覇を果たしたことでも記憶に新しい七大戦。その始まりが、ここ北大であったことはあまり知られていない。(関連記事→北大が初の連覇を達成 第64回七大戦)
クラーク会館前の道を西に進むと、石山通を行き交う車の音が聞こえてきた。その手前にひっそりと佇むのが「桑園学寮」の記念碑だ。

昭和24年に北3条西11丁目に創設され、昭和36年に移転した桑園学寮。かつての北大男子学生を支えた一大拠点も、昭和58年に閉鎖され、今ではその場所に石碑が残るのみとなっている。
網の目の様な農学部・理学部の建物裏を通って北に歩みを進めていくと、背の高い並木が見えてきた。闇夜に黒々としたシルエットを浮かび上がらせるのが、北大観光名所の1つ、ポプラ並木。そしてそのほぼ真下にあるのが、知られざる新渡戸稲造の顕彰碑である。

北大を代表する卒業生として「新渡戸カレッジ」などに名前が残る人物、新渡戸稲造。クラーク像と異なり、人通りの多いメインストリートから離れているため、存在を知らずに卒業する学生も少なくない。
「札幌農学校創設から数えて一二〇年を数えるのを記念し、卒業生らを中心とした数千人の篤志家の浄財によって建立された」と説明される顕彰碑。木々に囲まれており、残念ながら夜に訪れると姿を見にくいが、ライトで照らせば特徴的な丸眼鏡をかけた新渡戸のどっしりとした姿が浮かび上がる。
なお、新渡戸像の前を横切る道路が「新渡戸通り」と名づけられており、北大を東西に走る。太平洋の橋にならん——そう願った新渡戸の”道”は、今キャンパスの端と端を繋いでいる。

新渡戸通りを辿ってメインストリートに戻ってきた。明々と営業を続けるセイコーマートの前には、アイスを片手にくつろぐ学生の姿がある。
対岸に見えるのが続いての石碑「人工雪誕生の地」。北大教授として雪の研究に取り組んだ中谷宇吉郎が世界で初めて人工雪の製作に成功したことを記念するもので、雪の結晶を模した六角形の石碑だ。

彼の功績もあって、現在でも北大の低温科学研究所は研究のトップを走っており、中谷の最初の実験装置はそこで保管されている。石碑の裏手にはオープンイノベーションハブ・エンレイソウの暖色の光が漏れていた。
その努力を表した「何時までも根気よくやってゐれば(中略)必ず出来る」という言葉に従うかの様に、10時半を回ったエンレイソウには、勉強する数多くの学生が残っている。

さらに北上を続けていると東側に見えてくるのが「北大医学部」の石板。石に刻まれた学部看板は珍しいが、敢えて別の「石」に目を向けて見よう。医学部建物の噴水を回り込むと石像が見えてきた。
こちらは「醫学博士(いがくはくし) 今裕」の像。1918年に北大農学部に着任したが、北大に医学部がないことを受けて創設に尽力した立役者として知られる。医学部前で、石像は今も医学部生を眺めている。

最後に北大最後の秘境とも名高い「恵迪寮」にまつわる”石”を見に行ってみたい。工学部と北部図書館の間を抜けて道なりに歩いていくと、鬱蒼とした森が出迎えてくれる。森の入口にあるのが「明治四十五年恵迪寮歌」だ。

毎年新たな寮歌が生まれる恵迪寮。(関連記事→寮歌が響く秋の恵迪寮 寮祭一般公開日迫る)
中でも歌い継がれる「都ぞ弥生」の歌詞を刻んだこの石碑は、恵迪寮へ伸びていく道のプロローグと言っても良いだろう。
実はこの石碑は「北区自然と文化の八十八選」に選ばれている。また「都ぞ弥生」自体は札幌市内の様々な場所に歌詞が掲示されている。北大生のみならず、北区民、そして札幌市民にとって欠かせない一曲。その印が木々に囲まれている。

都ぞ弥生を口ずさみながら進むと、右手にもう1つの石碑が見えてくる。
「恵迪吉従逆凶惟影響」、寄宿舎跡の碑である。
「明治九年札幌農学校開講ニ当リ北一条西二丁目ニ寄宿舎開設セラル(中略)明治四十年舎名ヲ恵迪寮ト定メ(中略)昭和五十八年新寮舎ノ開設ニヨリテ閉寮解体セラル」と恵迪寮が歩んできた長い歴史を端的に綴った文面からは、寮がたどった長い変遷を感じ取ることができよう。

土台に載せられた立派な石に刻まれている「恵迪吉…」は恵迪寮の名前の由来となった書経の一説だといい、「迪(みち)に恵え(従う)」という学生としてもあるべき姿を刻んでいる。
石碑は寮への道から少し外れた場所にあるものの、道路から石碑までは草の踏み跡がくっきりと残っているうえ、石碑自体が綺麗に手入れされている。頻繁に人が足を踏み入れることが窺い知れる。道理に従う思いは寮生に、継承されているのかもしれない。

恵迪寮前まで歩いてくると外壁を覆うツタの間から部屋の光が漏れていた。外壁の綺麗な学部棟から漏れる研究室の明かりとは違う趣が、ここにはある。
農場の手前まで抜けると、農場の暗がりの奥に札幌駅周辺のビル群の光を見る事ができた。北大キャンパスも札幌も、まだまだ眠らないようである。

散策の末に、道をたどり道を知る。夜の北大を巡ると、まだ知らない北大が見えてきた。
(執筆・撮影:古谷)
