北大闘争と北大新聞会 かつての北大生が語る

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1968年に東京大、日本大などで発生した大学闘争の波は、北大にも及んでいた。構内の至る所で主義・主張が叫ばれ、武装闘争にまで発展することもあった時代。そのさなか、北大新聞会のメンバーはどのようなスタンスで活動していたのか。大嶋薫さん(1970年法学部入学)、大橋俊男さん(1968年農学部入学・北大新聞会OB)、野田正彰さん(1963年医学部入学・北大新聞会OB)に話を聞いた。

1960~70年代の北大の雰囲気

ベトナム反戦運動や1960年の安保闘争をはじめとして、構内で学生運動は広がりを見せていた。学生自治会やセクトの活動が盛んになり、学生は日夜議論を交わしていた。「何人かクラスの仲間で酒を飲みに行っても、喫茶店に行っても、文学論とか哲学論をガンガン議論していた」と大嶋さんは語る。運動の激化に伴い、立てこもりやゲバルトなどにより逮捕者や死傷者が出ることも珍しくなかった。

1960~70年代の新聞会の組織形態

北大新聞はかつて北海道大學新聞会という名称だった。「略称『聞会(ぶんかい)』と呼んでいた」と大橋さん。学生会館(現・インフォメーションセンターエルムの森)2階の西側に大きな部室を持ち、月2回、4〜6面、15段で紙面を発行していた。1文字ずつ活字を並べ転写する活版印刷の時代であり、紙面発行には多大な労力がかかったという。実際、文字が逆向きになるなどの誤植も多かったそうだ。部室には電話が1つ置かれており、会員はいつでも使用できた。当時の代表者は大学総長、顧問は布施鉄治氏だった。また面接・作文による入会試験が実施されていたり、給料を出して事務員を雇ったりしていたそうだ。現在の北大新聞はホームページでの情報発信が主で紙面発行は年2回、部室を持たず活動しているが、それとは運営形態が大きく異なっていることが窺える。

自治委員選出から新聞会に

1968年当時、教養部(現在の総合教育部)の各クラスで反戦運動組織が構築され始めていた。組織運動論に興味のあった大橋さんは、クラス約60人のうち約40人を組織に組み込んだ。これは教養部最多の人数であったようだ。年次が上がると、北大新聞会の活動として北大の他に小樽商科大、帯広畜産大、札幌大、藤女子大などが加盟する北海道学生新聞連盟での委員長も務めた。

大橋さんは「僕は東京出身で北大に来たのですが、それまでは喋るのと書くのが大っ嫌いだったんです。北大に来た瞬間に、自分で自分を変えなきゃいけないと思ったんでしょうね。教養のクラスで自治委員に立候補したんです。そしたら、みんなの前でいきなり喋ることができて。あんなに喋るのが嫌いだった奴が。『もしかしたら書けるかな。よし、新聞会行こう』と。それからちょっとずつ書き始めたんですね」と語る。

野田さんも、初めから北大新聞会に入ろうとしていたわけではなかった。中学・高校と山岳部。当時北大からも人員が派遣されていた南極地域観測隊に、医療隊員として入隊することを夢見ていた。当然、山岳部に入部するつもりだった。そんな野田さんが北大新聞会に入ったきっかけは、またも自治委員だった。当時、医学部のクラスは約90人。入学時にクラス全員が北大医学部に入った動機を書かされた。それを読んだ担当教員に呼び出され、自治委員に指名されたという。

「ノーと言えばよかったものを、言われたら受け入れるものだと思って自治会に行ったんです。教室の後方に各セクトの大先輩がずらーっと並ぶわけですよ。夕暮れでね、手稲の山に夕日がかかるくらいのとき。窓から光が差して綺麗だった。そのとき、ちょうど彼らが前のほうへ出てきて演説したり殴りかかったりし始めました。ショックだった。殴ったことじゃない。言ってる言葉が全然理解できないことがショックだった。『なんとかをしつつ、乗り越えつつ――なんとかかんとか』ってね」。

彼らの言葉を理解するためにはどうすればいいのか。野田さんは経済学部3年の先輩に相談した。先輩の提案は2つ。ヘーゲルの「大論理学」を読むこと、そして北大新聞会に入ることだった。野田さんは提案通り高価で長編の「大論理学」を購入して読み、北大新聞会に入った。「それが、私の人生の誤りの始まりです」と冗談交じりに呟く。

学生運動の渦中にあって

北大創基90周年記念特集号の、野田さんが執筆した記事を見せてもらった。社会・経済の趨勢に関して戦後の北大史をもとに論述されている。この紙面に掲載されている絵は、登山家・画家である坂本直行さんから提供されたものだ。野田さんは度々坂本さんのもとを訪れ、新聞記事の挿絵の提供を頼んだそうだ。坂本さんは、毎回喜んで絵を描いてくれたという。

北大創基90周年に際して野田さんが執筆した記事

現在の北大新聞には「敲き(たたき)」という文化がある。編集長を設置していないため、執筆された記事を部員同士で掲載前に推敲・校正しているのだ。北大新聞でこの言葉がいつから使われているかは不明である。野田さんと大橋さんに尋ねてみると、少なくとも1960年代後半時点では「無かった」という。「もちろん他の部員が書いた記事は読んでいた。それは相手への礼儀ですから」と野田さん。

むしろ、日常的に議論を重ねていたという。「時に『文章が下手だ』『この部分についてはお前と意見が違う』と言い合うこともあった。けれど本気で落ち込んだり、北大新聞会として立場を統一させようとしたりするようなことはお互いになかった。みんなそれなりに良いものを書いてくるんだろうなと尊敬していたから」とのことだ。

当時の北大新聞会が扱っていたのは北大周辺の出来事や国内外の政治・経済の動向について。「北大新聞会には色々なセクトの人がいたけど、それらの思想を代弁するっていうことは無くて。セクトは違っても、和気藹々と自由に議論をしていた」と大橋さんは語る。学生運動が激化する中、北大新聞会は1つの議論の場、そして議論によって得たその時々の思考を学生が表出させる場として機能していた。会員に記事のテーマが与えられることはなく、それぞれが書きたいものを書くという風土があったようだ。

「時代として、肩書や上下関係が重視されない雰囲気がありました。それは全共闘という形で学生運動が出てくる。あるいはべ平連(ベトナムに平和を!市民連合)という形でベトナム反戦を目標にして運動の広がりが作られる、などといった現象にも表れていると思います」と大嶋さんは付け加える。

一方で、北大新聞会は学内の世論形成を担うという立場上、機関紙獲得を目論んだ一部のセクトから乗っ取りを仕掛けられることもあった。実際、あるセクトから空手経験者の屈強な手先が1人送られ、北大新聞会に入会させるという試みがあったようだ。放っておくと部室内での暴力騒動に及びかねない。とはいえ思想・信条を理由として入会を拒否することもできない。その際、野田さんは彼に入会試験として作文を課し、朱を多く入れることで入会を防いだそうだ。この攻防は何度も繰り返された。「そのうちだんだんと彼が慕ってきてね。卒論作成が難航していたらしいから、教育史かなんかの卒論を書くのを手伝ってやった」と野田さんは語る。

北大新聞に身を置いて

大学闘争の中、北大新聞会として活動することにどのような意義を見出していたのか。そして、北大新聞会での活動がその後の人生にどのような影響を与えたのか。

「大学新聞は若造が世界を認識していくプロセスを伝える媒体」と野田さん。「日本の高等学校までの教育では、生徒が与えられた科目を身に着けることを重視している。自分の思考を見直す初めての機会が、北大新聞会での活動だった。具象的な思考から、抽象的な思考に変化していった」と語る。

「マスコミは政府側・権力側の視点でものを書いている。僕らはデモをしている視点で書いている。『殴った』のか『殴られた』のか表現1つでも意味合いが変わってくる。」と大橋さん。「反権力」が運動の軸であった世代。運動に身を投じる中で、政治の力が必要なのは弱い人たちだという意識を強めていった。その意識が、現在行っている自身の社会福祉事業にも繋がっているという。

そして野田さんは「部活・サークル活動に励んで大学を卒業していくことは、学部で専門性を深めることとは別に自分の思想を形作るという意味で『二重卒業』という言い方ができる。私の仕事の半分は精神科医ですが、もう半分は物書きであったと今までの人生を振り返って思いますね」とも話す。

入学前は北大新聞会に入るなど夢にも思っていなかった2人。だが偶然入った北大新聞会で培った思考力や経験、記憶がその後の人生に深く影響を及ぼしている。