【創刊100周年記念連載:LOOKBACK北大新聞】No.4 戦後の日本と北大新聞

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7・8月号では第二次世界大戦前後の記事を読み直す。今回は、終戦後初めて発行された昭和20年(1945年)12月25日の第302号を題材とする。

戦後の映像として思い浮かぶのは玉音放送を前にこうべを垂れる日本人、東京湾で降伏文書に調印する重光葵、日本に降り立つ煙草をふかしたダグラス・マッカーサー、死刑宣告を受ける東条英機元陸軍大臣、壊滅的な被害を受け今後70年は草木も育たないと言われた広島・長崎、そして焼け野原になった街を闊歩するアメリカ兵とチョコレートを求める子供。どれも「敗戦国日本」の悲壮さを表すものである。

これらの映像の報道が日本国民に戦争の代償と疲労感を鮮烈に刻み込み、国民の反戦意識を醸成するのに有効であることは疑いようがない。しかし、これらの報道には当時の日本人、特に戦争のあおりを受けながら普段とさほど変わらぬ生活を続けることになる人々が戦争をどう捉え、敗戦をどう受け止めていたのかという視点が抜け落ちているように思える。俯瞰的な視点のみが切り抜かれた敗戦国の現状が報道されているのではないか。

この欠落は、戦争当時の日本国上層部への憎悪や日本人の一方的な被害者意識といった歪んだ認識を醸成しかねないし、その渦中で生き続けた人々への無思慮につながる。

前号の記事では、日常に戦争が融合し常時と非常時の輪郭が次第にぼやけてきた時代、安全地帯に身を置きながらも戦争にさらされ続けた一般市民の観点に注目した。

本記事では昭和20年11月に新たに北大総長へと就任した伊藤誠哉氏の就任演説及び取材記事を取り上げる。戦争と敗戦を同じ時間軸で体験した伊藤総長の戦争・敗戦についての当時の所感を知るうえで重要な資料といえる。

高揚、困惑と罪の意識

民主主義と学生

本論に入る前に、302号に取り上げられている他の記事を序論として紹介する。当時の北大・北大新聞の状況についての理解を深め、より鮮明に伊藤総長の記事を印象付けるものになることを期待する。

302号は「民主主義と学生」という論説から始まる。

完全なる敗北とともに新日本建設の叫びはあふれ、衣食住の困窮は日に増大しつつ、日本は急激に〇(以降〇は識読不可) 化しつつあるのである。〇〇極まりなきとき、我々は如何に進むべきであろうか。我々はあらゆる面において民主主義への変革が急速に行われつつあるのを知るのであり、我々学生の大多数は自由主義を得るにいたったのである。我々はあらゆるところにおいて、これらの衝突からすべては出達すべきであることを忘れてはならない。(以下略)

「完全なる敗北」や「新日本建設の叫びはあふれ」といったように、当時敗戦処理真っただ中の日本に身を置いた学生の生の声を感じることができる。302号の紙面では石炭不足による北大の冬季休講・休学が報じられている。その点を踏まえて読み直すと、「困窮」という言葉はより重みを帯びてくるのではないか。

注目すべきは3文目の「我々は(中略)民主主義の変革が急速に行はれつつあるのを知るのである」という一節だ。第一次農地改革による地主制度の破壊や、財閥解体など現実に起こっている事象を意識した文であると推察されるが、「行はれつつあることを知る」や「自由主義を得るに至った」という文からは日本人・学生のあずかり知らぬところで民主主義化、自由主義化が行われたという一種の疎外感が感じられる。

 また、「これらの衝突からすべては出達すべきであることを忘れてはならない」という一文からは、学生という最もエネルギッシュな人間でありながら、戦争へと進む潮流に飲まれてしまった北大生全体としての罪の意識を感じる。

このように、当時の北海道帝国大学には突然与えられた民主主義・自由主義への高揚と困惑、そして戦争への負い目が混然と存在していたのかもしれない。

新総長、かく語りき

伊藤総長は就任演説にあたり、戦前の教育行政への反省と「学問のための学問」の重要性を口にする。

もし教育が自由なる人格、自主的な思想、自発的な行動を目的として行われ、文化・水準・科学的知識が高まっていたら、敗戦はもちろんこんな戦争はしなかったであろう。それ故、教育は国家再建の始めであり、然りである。

われらが横穴竹槍練習をしている間に一見何の行にも立たない学者の一遊戯とみられたボア教授の原子物理学が大戦の終止符を打った[1]この一例からもわれらは真理の愛好、科学の尊さに見覚えねばならない。


と敗戦の原因をアメリカなどと比べて科学的水準が著しく低いことに求めており

大東亜戦初め、軍部及び国民は科学者を冷遇し学業を軽視して、「行」をしないのを誹謗して(中略)非科学的教育を強要したのである。


と、その原因を軍部主導の実践重視主義として批判している。「一見何の行にも役にも立たない学者の一遊戯とみられた」という部分からも、冷遇された研究者としての恨み節が見て取れる。

注目すべきは、伊藤総長が「なぜ戦争が起こってしまったのか」ではなく、「なぜ戦争に負けてしまったのか」と繰り返し述べている点である。演説からは「科学を重視すれば、敗戦などしなかったのに」という後悔が読み取れる。「ボア教授の原子物理学が大戦の終止符を打った(中略)科学の尊さに見覚えねばならぬ」という部分にもよくその考えが現れている。第二次世界大戦は爆薬や毒ガス、原子爆弾と科学の力が良い意味でも悪い意味でも大いに発揮された戦いであったことは疑いようのない事実である。現在その力は恐怖の対象として描かれることが多いが、伊藤総長の目には新日本建設の大きな原動力と映ったのではないか。

もちろん序文で「敗戦はもちろんこんな戦争はしていなかったであろう」と書かれている通り、伊藤総長が戦争行為を肯定しているわけではない。ただ、戦争の渦中に身を置き、日本の勝利と栄光を望み信じていた多くの日本人のうちの一人であることに疑いようがないだろう。

北大新聞を論じて、かく語りき

取材において、伊藤総長は敗戦当時の日本の現状についてその所感を答えている。

——記者
今度新聞を出すことになったのですが、新聞に対するお考えは
——総長
私は一刻も早く出して欲しいと思い、今度出るというので大いに喜んでいる。世論の発表機関としての新聞は学校にとっても必要であり、私としてもあらゆる点で協力する。過去に私も長い間新聞部長をやっていたが言論抑圧ということがあったがそれは良くないことであり、言論が自由となった今日[2]大ひにやってもらいたい。
——記者
新聞が終戦後速やかに出されなかったということについては嘗て新聞が所謂報国会[3]の一部であったため、報国会が解散とともに報道科が解散した。そのために、新学友会ができるまでは発刊は保留さるべきと一部では言われていたが、新聞というものは所謂各部とは違った存在であり、常に存在する強力な機関として存続させたいがそれに対して
——総長
勿論そのとおりである。新聞の特殊な立場については私はいつも言っているのであるが常に学校において新聞部を存在させ、その運営は学生にやらせるのが一番よいことである。

ここでは北大新聞の記者が大学新聞の必要性について質問を投げかけ、伊藤総長が持論を語っている。報国会に触れた質問からは、新学友会再編下で浮足立った状況の中での取材であることが伺える。伊藤総長は自身の経験に触れながら、新聞部の特殊な立場や言論の自由の必要性について自分の考えを述べた。

食糧難を論じて、かく語りき

——記者
食糧難は深刻なものがあり先生により委員会を設けて活動を開始しているとのことですが、(中略)第一回は根本的な問題に取り掛かれなかったがもっと進むべきと思っている。問題は来年収穫期までいかにして学生職員の食糧を確保するか、それまでにいかにして増進するかである。

記者の問いはまさに北大生、ひいては全国の学生の叫びであろう。民主主義や自由が与えられても飢えれば気力なく死を待つだけであり、解決してほしい喫緊の課題である。

——総長
在来学生皆配を願っても許されぬ理由は、もし学生に許すとすれば中学生以下にもすべて許すべきであるというが、これは一を知って二を知らざることと思う。中学生などの多くは家庭より通っているからその間に幾分なりとも食糧も都合がつきやすかろうが、下宿生、寮生、臨時教員養成所には全く配給以外には何もないのである。食糧事情は全く異なるが皆配を行うとすれば、学業と闇[4]とは並立することができず、終いにはリュックで畑の棚残りの籾殻を水炊きにして食べている悲惨なるものもいるということになるのである。

総長の意見は、こと食糧については根本的解決についての対策を講じる前に致命的な問題の解決・解消を優先して行うべきであり、今のところ委員会の方針を変えるつもりはないというものだ。根本的解決には時間を有するため、時間が限られている状況で目前の学生を助ける事に注力するという意見には筋が通っていると言える。

——記者
然らば何故に学校は其の窮状打開の対策をせぬか。(中略)大学には農場があるがなぜ食糧がないと言うか、農場のものといえどもみな各地で供出すべきものであり、それを運ぶこともまた違反できぬのである。

古い言い回しで、当時の状況の不明確さから理解に苦しむ文ではあるが、分かっている当時の状況を踏まえ推察して読み解くと「大学は国からの命令により、自大学の農場であるにもかかわらずその配当を生徒に与えることができていない。喫緊の課題として学生の食糧難への対策が必要であるなら、国の命令に従い食糧を収めるのをやめ、その分の食料を貧困した学生に配給するべきではないか。それができないから、現状が続いているのではないか」ということだろう。それに対し伊藤総長は

——総長
いやしくも教育の府たる大学では闇はできない。学生3500名、職員2300名に給飯を一回やらんとすれば闇どころか公々然となり、合法的に獲得遷都することにも全く不可能という悩みがあるのである。


と苦しい胸中を吐露する。学生の困窮は自分の身が張り裂けるように辛いが、かといって学問の府として国に隠れて違法なことをするわけにはいかない。水に囲まれながらも干からびる漂流者の気持ちであろう。

法文科設置を論じて、かく語りき

伊藤総長取材のもう一つ大きいトピックは法文科の設置についてである。北海道帝国大学は東京の開拓使仮学校から始まり、札幌農学校、東北帝国大学農科大学と続く系譜の大学であり、1945年時点で農学部、医学部(1919年設置)、工学部(1924年設置)、理学部(1930年設置)が存在する自然科のみの大学であった。この時点で北海道帝国大学、大阪帝国大学、名古屋帝国大学を除く帝国大学はすべて人文科と自然科を併せ持っており、特に台北帝国大学以前に作られた7帝国大学のうち人文科を備えていないのは、北海道帝国大学のみであった点から、戦前から人文科の設置は悲願であった。

——記者
大学自体として法文科設置に関しては
——総長
これについては中野事務局長が文部省などに行っているが、当然人文科と自然科の併行しないのは大学としての完全なる体系ではない。こうした時代には人間を作る点からも人文科のないのは意味をなさない。いたずらに大学の数を増やしても何もならず、それでは文化は進まない。設備に関しても時偶が逼迫(ひっぱく)しているので困難だが断然やりたい
——記者
資金などを寄付にあおいでは
——総長
財閥もなくなるが、資金がないとてできないことは愚でそこは技術である。金はないから出来ぬとあればどうか。建物がないとあればどうかと進めていくべきだ。
——記者
大阪帝大でも設けようとしているが妨げられる心配は
——総長
ちょうど気をもんだが、総長発令が遅くてなかなか進行させられなかった。大阪で作ってもこちらでできぬということはなく、心ある人は大学の分布から大阪京都名古屋と近くに三つも必要ではないと言っているが、よその事は言えぬが北海道に法文科を持っていないのが不思議である。かつて佐騰総長のときできそうであったがいろいろの国内事情から取りやめになったが、経費がなければ集めるし、また建物がいればつくるが、この度つくる無遼には良い時期であるか苦しいときである。

京城、台北などの方々も当然内地へ来られるだろう。大いに良い案件ではあるが、敗戦国であり空手形的計画をやるようでは困る。研究所の問題も多くあるため極力努力している。

教育制度再編の中で、何としても人文科と自然科を併合した大学へと変えてゆこうという気概が感じられる。結果、伊藤総長の在任期間であった1947年に法文学部の設置を果たし、就任時に大学新聞で述べた構想を実現することになる。補足的に説明すると、本文中でライバルとして語られていた大阪帝国大学は1949年、名古屋帝国大学は1948年に人文科併合を果たすことになったため、北大は残り3帝大の中で最も早く併合を実現したことになる。

大学名(最終名称)人文科、自然科併合年備考
東京大学1877法、文が最初から存在
京都大学1899法科が最初から構想
東北大学1922法文学部設置
北海道大学1947法文学部設置
九州大学1924法文学部設置
京城帝国大学1926法文学部設置
台北帝国大学1928文政学部設置
大阪大学1949法経学部設置
名古屋大学1948法経学部・文学部設置
各帝国大学の人文科、自然科併合年(帝国大学設置順)

小さなともしび

伊藤総長の弁や、記者の姿勢からは一般に想起されるような戦争により疲弊し、悲嘆に沈む日本人像は感じられない。むしろ現状の苦しさや辛さを薪として燃やし、新たな日本を建設していこうとする信念が感じられる。彼らのような人間が日本を立て直し、約20年後のオリンピックで世界を驚嘆させることとなる日本を作ったのだ。

もちろん戦火により大事な人を無くし、住む場所も食べ物も失った人がいることを、高度経済成長で犠牲となった人がいることを忘れてはいけない。しかし逆境の中、苦しくても辛くても立ち上がり前を向き燃えるように突き進んだ我らの恩人たちのこともまた忘れるべきではない。敗戦という闇の深さは、その中で輝く小さなともしびを見つけることを困難にする。しかし、彼らの生きた証はこの記事のように各所に刻まれている。その業績を一つ一つ見つめなおすことが正しい反戦意識を醸成し、その渦中で生き続けた人々を等身大に理解することにつながるのではないかと思う。

過去の記事を振り返ることで当時の日本人の戦争意識について変化が生じたのではないだろうか。当時GHQのプレスコードが発令されていた点を踏まえても、被害者意識一辺倒であったわけではないのは事実であろう。また、節々から感じる敗戦への無念からも、戦争が日本上層部の強権的な主導により行われていたわけではないことがわかる。我々は戦争と同時代に生きていた人々の言葉から、絶望の淵から立ち上がる力を、同時になぜ日本国民は戦争へと歩みを進めてしまったのかを学び取る事を忘れてはいけない。

終戦のかほり

1・2面の1枚の紙面で発行された302号の最後には以下のような読者へのアンケートが付されている。

急告
新聞部に於ては再建日本の途上にある学生一般より広く左記(下記)の要項により世論調査を行うます故、ご協力を願います。

記載事項
・所属学部生年月日
・戦時中の勤務場所
・戦災の有無(該当するものに〇印をつけてください)
 住宅焼失 寄宿先焼失 関係者死亡
・居住地及び通学所要時間

(一)敗戦の根本的な原因は何であったとお考えですか
 軍部の策謀失敗 官吏の無能な慢〇〇
 〇戦士の非協力 軍官民の対立
 技術の未発達  国民道義欠落
 軍備材の不足  外交人の無力
 その他の理由

(二)左記(下記)の新党の中どれに好感をお持ちですか
 ( )日本進歩党
 ( )日本自由党
 ( )日本社会党
 ( )共 産 党

(三)天皇制の存続可能性についてどのようなお考えをお持ちですか
 (イ)抑々批判論議の限り〇〇〇〇〇〇
 (ロ)一部改革して在続すべきである
 (ハ)根本的に改革して在続すべきである
 (二)廃止すべきである
 (ホ)別に意見なし

世論調査

当時の北大生は敗戦をどのように捉えていたのだろうか。この世論調査の結果は他の紙面を探しても見つけることが出来なかった。

政党政治の復活を歓迎する質問も見受けられる。戦後五大政党のうち日本協同党の名前が抜け落ちているのは、同党の結党日が1945年12月18日であったため差し込むことができなかったからであろう。翌年、初の男女普通選挙により日本自由党が勝利したことを、北大新聞の記者はどう捉えたのだろうか。

加えて議論は天皇制の存続に及ぶ。世論調査において敗戦の根本原因の欄に「天皇」や「皇族」の名前が掲載されていないように、終戦を迎えても天皇及び皇族についての話はタブーとされていた。その中でこの質問を投じるのには相当の覚悟が必要だったに違いない。発刊の1週間後、元旦に昭和天皇が人間宣言を行ったのをどう感じながら聞いていたのだろうか。

自由の鐘

本号のコラム「自由の鐘」の引用をもって、7・8月号の締めとさせていただく。

エルムの鐘

敗戦といふ夢想だにしなかった現実によつて得られた学問の自由、その代償はあまりにも大であった。我々は再び鳴りわたる学問のエルムの鐘に耳をすまし、開学の恩人クラーク氏の言葉、ボーイズ ビー アムビシアウスを繰返へさう。


(取材・執筆:山口智弘)


[1]
ここで指摘されたボア教授ことニールス・ボーア氏はわれわれ日本人にとっても馴染み深い「ボーアの原子モデル」の考案者ボーア氏その人である。アインシュタインやハイゼンベルグなどと交流を持ち、ボーア氏の発表した連鎖的な原子核分裂モデルの予想は原子爆弾開発に中心的な役割を果たした。しかし、バーア氏自身は原子力の平和的利用を念頭に置いており、原子力爆弾への使用には否定的な立場を取ったと言われている。実際、当時の西側諸国の中心人物であったチャーチル首相やルーズベルト大統領の説得を試みたことが知られている。
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[2]
「言論が自由になった今日」と述べているが、この新聞が発刊された1945年12月時点ではGHQによるプレス=コードが発令されており、占領軍に対する批判の禁止と、内容の検閲が行なわれていた。
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[3]
北海道帝国大学に存在した文武会は文部省の意向により、教職員学生を一纏めにした錬成報国の団体として、北海道帝国大学報国会に再編された。報国会は総務部、文化部、鍛錬部、国防訓練部を持ち、大学新聞は総務部により管理・運営されることとなった。
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[4]
ここで指摘されている「闇」は闇市のことであると推察される。闇市は地方の農村で行われるため、闇市に行こうとすれば、大学の授業には出席できない。そのため、「学業と闇は並立することができず」と述べたのだろう。のちに述べられる「大学では闇はできない」、「闇どころか公々然となり」の闇はもっと一般的に非合法な行為を指すと考えられる。
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